科学研究費補助金(学術創成研究費) 目録学の構築と古典学の再生」研究グループ主催
 2008年春季第2期学術講演会 第6回 公開講座【古典を読む−歴史と文学−】
  2008年7月26日(土) 於金鵄会館

善光寺平に瓦葺建物が建った−善光寺出土瓦をめぐって− [講演要旨]

京都大学大学院文学研究科 教授  上原 真人


 長野市教育委員会の教示によれば、古代善光寺が存在したと推定される長野市元善町付近、および善光寺瓦を焼成したと推定される東沢窯跡・田中窯跡、それに近接する浅川扇状地遺跡群牟礼バイパスB・C・D地点などで、善光寺に関連する軒丸瓦計27点、軒平瓦計20点が出土している(表1)。この中でa)凸鋸歯複弁8葉蓮華紋軒丸瓦(図3−1〜4)とb)偏行唐草紋軒平瓦(図3−12〜16)が、それぞれ過半数を占め、古代善光寺の創建瓦と判断できる。
a)を川原寺式軒丸瓦と評価することに異論はない。基準となる奈良県川原寺跡出土の川原寺式軒丸瓦(図4−1〜4、以下「原形」と呼ぶ)と比較した場合、以下の点で、a)は原形と相違する。@中房径は直径の2/5前後で原形に等しいが、中房蓮子は1+4+8で、二重目の蓮子が小さく蓮子周環を持たない。A弁区の複弁8葉は原形と比べて平面的で、立体感を喪失している。また、1葉だけ中軸に間弁を入れた「複弁」がある(矢印部)。B外区斜縁には面違鋸歯紋ではなく凸鋸歯紋がめぐる。C四重弧紋軒平瓦ではなく、b)の偏行唐草紋軒平瓦が組合う。
 善光寺創建軒瓦@〜Cの属性は善光寺独特で、同じ属性を完備し、直接の源流と認定できる他例はない。つまり、善光寺平に川原寺式軒丸瓦が伝播した時点で、大きな改変を受けたのである。その故郷を特定するには、属性ごとに由来を検討し、複数の属性が最も多く備わった地域を、善光寺創建瓦の故郷と考える方法が考えられる。
 川原寺式軒丸瓦については、美濃国に集中することを根拠に、壬申の乱の論功行賞として使用を許したとする説がある[八賀1973]。しかし、川原寺式軒丸瓦の分布を検討しても(図5)、美濃国の特殊性は指摘できない。むしろ、壬申の乱において大友皇子の本拠となった近江国にも、川原寺式軒丸瓦が濃密に分布することは、天武天皇による論功行賞と無関係であることを明示する。また、新治廃寺系列(図7)のように、在地に根付いて独自に展開する川原寺式軒丸瓦の存在形態をみれば、その分布の背景に、中央からの直接の政治的規制力を想定することも難しい。
 川原寺式軒丸瓦の分布を、素直に畿内を中心に拡散した結果と理解すれば、伊賀・伊勢・尾張東部に伝播した東海道系列の川原寺式軒丸瓦は、三重構成の中房蓮子を残すが、蓮子周環や外区斜縁の面違鋸歯紋を喪失する方向で変遷し、南海道系列の川原寺式軒丸瓦は、面違鋸歯・凸鋸歯・線鋸歯の違いはあっても外区斜縁の鋸歯紋を残し、蓮子周環を喪失する方向で変遷した(図6)。これに対し、大和・山城・近江・美濃・尾張西部に至る東山道系列は、外区斜縁の面違鋸歯紋や蓮子周環を残しつつ、中房が小さくなって蓮子が二重構成になり単弁化する高麗寺系列(図16)をはじめ多様な展開をとげる。善光寺a)軒丸瓦の素地は、東山道系列のなかで想定できる。
 一方、b)軒平瓦については、法隆寺若草伽藍の杏葉唐草紋軒平瓦との類似性が指摘されていた[黒坂1989、村上1988]。杏葉唐草紋軒平瓦は、若草伽藍創建時に、型紙で輪郭を描き紋様を彫り出す「手彫り技法」で創出され(図8−2)、後に紋様一単位を上下逆転しつつ連続押捺する「スタンプ技法」に簡略化する(図8−4)。639年着工の百済大寺においては、上下逆転せずに同じスタンプを連続押捺する(図8−6)。スタンプの単位紋様の形状は、根元に瘤状のふくらみを持つ点に至るまで、善光寺b)軒平瓦によく似ている(6頁左下写真)。しかし、笵型で紋様を起したb)軒平瓦と、若草伽藍の杏葉唐草紋軒平瓦との年代的・技術的ヒアタスは大きい。
 このヒアタスを埋める資料が、伝飛鳥寺出土軒平瓦(図8−7)と滋賀県崇福寺出土軒平瓦(図8−8)である。ただし、前者は発掘調査では出土せず、同じ個体がくり返し飛鳥寺瓦として紹介されている[保井1932、石田1936、梅原1944]。出土遺跡に関しては、疑問符を付けておく必要がある。また、後者は数多く採集されているが、全体の分かる個体がなく、崇福寺以外で採集されていない。問題が残るが、全体を笵型で起す点、単位紋様の根元の瘤や蔓の分岐部に蕾状の飾りを付す点(6頁右下写真)など、善光寺b)軒平瓦との強い近似性が認められる。しかも、伝飛鳥寺出土軒平瓦は、上外区に紡錘形の蓮子、下外区に線鋸歯紋がめぐる。この特徴は7世紀末〜8世紀前葉の大官大寺式軒平瓦・興福寺式軒平瓦(図8−10・12)に特有で、年代を限定する根拠になる。以上、b)軒平瓦も大和−近江を結ぶ東山道に起源し、7世紀末−8世紀初に善光寺平にもたらされた可能性が高い。
 善光寺では少量ながら三重弧紋軒平瓦が出土しており(図3−11)、軒丸瓦a)は当初、重弧紋軒平瓦と組み、後に軒平瓦b)と組んだ可能性もある。その場合でも、川原寺が創建された660年代を上限とし、大和−近江を情報発信源とする見解に変更の必要はない。この情報発信源に関する憶測は、相前後して善光寺平や信濃国に導入された古代瓦の様相からも導くことができる。
 善光寺平の南西部、篠ノ井の上石川(旧更級郡)にある上石川廃寺では、同じ複弁8葉でも、花弁の先端が鋭く尖った蓮華紋軒丸瓦が出土している(図9−3〜8)が、畿内に類例がないため、積極的な評価がなされていない。この原形となるのが、近江衣川廃寺の複弁8葉蓮華紋軒丸瓦である(図9−1・2)。とくに三重構成の中房蓮子や、先端に鎬を入れて、鋭く尖った花弁を表現する手法に、上石川廃寺例よりも先行する要素がある。年代のきめ手はないが、川原寺式軒丸瓦にさほど遅れずに出現し、東山道を通じて善光寺平にもたらされたと考える。
 衣川廃寺出土瓦の中で、飛鳥時代的な特徴を残した軒丸瓦(図10−1・2)も、東山道を通じて、飛騨国寿楽寺廃寺=高家寺タカヤデラ[岐阜県文化財保護センター2002](図10−3・4)、松本平の明科廃寺[長野県史刊行会1988](図10−5・6)に伝播し、さらに甲斐国まで到達した例(図10−7・8)として著名である[敷島町教委1990、上原1997]。この場合は瓦当紋様の類似性だけでなく、縦置型一本作りという特殊な軒丸瓦造瓦技法が後三者に共通し、紋様・技法の両面における情報発信源として近江国を特定できる。実年代は、縦置型一本作りから、660年代以降に比定できる。そして、近年注目された善光寺「湖東式軒丸瓦」の源流が、近江にあることも異論の余地はない。
 古く軽野廃寺式と呼んだ[滋賀県教委1976]畿内に類例のない軒丸瓦が、琵琶湖東岸の旧愛知郡東部を中心に分布する。基準となる軽野遺跡では、初現型式から退化形式まで各種の湖東式軒丸瓦が出土するが、図11に基準資料を提示する。これに似た紋様の軒丸瓦は、百済熊津(公州)の南穴寺跡や大通寺跡で古く採集されおり「軽部1932]、湖東式軒丸瓦と組合う押圧波状文軒平瓦の系譜は、百済・高句麗・北魏へとさかのぼる[大脇2005]。これを根拠に、湖東式軒瓦の起源を半島に求め[小笠原1989]、湖東に蟠踞した渡来系氏族「依智秦氏」や白村江敗戦後に亡命し、天智朝に近江国神埼郡(天智紀4年2月是月条)や蒲生郡(天智紀8年是歳条)に居住した「百済の民」と結びつける議論がある[小笠原2001、山崎1983]。
 しかし、その後、湖東式軒丸瓦は湖北・越前・美濃・尾張にも分布する事実(図12・13)、肝心の神埼郡に分布しない事実(図14)[仲川2007]が明らかとなり、湖東式軒丸瓦は百済系ではなく高句麗系だという指摘[山崎2008」まで現われて、湖東式軒瓦から寺院造営氏族を特定する試みはジレンマに陥った。たとえ湖東式軒丸瓦の創作者や造瓦工人が「百済の民」だったとしても、寺院造営主体とは区別せねばならない。たとえば、蒲生郡竜王町雪野寺は、高麗寺系列の川原寺式軒丸瓦−重弧紋軒平瓦で創建され、施設の建増しや修理・再建の一時期に湖東式軒瓦を使用したことが明らかである(図15)。瓦当紋様を根拠に、造営氏族は特定できない。
 もちろん、初現型式から退化形式まで、一貫して湖東式軒丸瓦を使用し続けた軽野遺跡などは、湖東式の情報発信源として、特定の渡来系氏族に関わる可能性がある。しかし、軽野遺跡でも、8世紀半には平城宮式軒瓦を採用する。瓦当紋様は氏族のアイデンティティを示すのではなく、時代性を示す資料なのだ。だから、土器と同様に、考古学的な年代の基準となる。善光寺の軒瓦のあり方も、雪野寺と似ている。善光寺創建時のa)軒丸瓦・b)軒平瓦と湖東式軒丸瓦との間に、どれほどの時間差があるかはっきりしないが、瓦当紋様としては、湖東式が後出である。
 信濃における近江起源の瓦は、7世紀末〜8世紀初に限らない。8世紀後半の信濃国分寺創建瓦は、直接、平城京に起源するが、修理瓦と判断できる唐草紋軒丸瓦は、製作技法(横置型一本作り)と瓦当紋様が近江起源と考えられる。つまり、8世紀後半以降も、近江国と信濃国の瓦はわずかな関係がある。しかし、善光寺瓦に見る近江国との近縁性は、律令制確立前夜の様相を反映していると、私は考えている。近江国は東山道最初の国で、東山道を東に向かうと、美濃・飛騨から信濃国に至る。律令体制下で「国」という行政単位が確立する以前、評(郡)が行政単位として重要だった。しかし、中央と各地を結ぶ基幹官道も、単なる交通網ではなく、文化政策を施行する上での行政単位として重要な意義があったことを、瓦の分布が語っていると思う。