科学研究費補助金(学術創成研究費) 目録学の構築と古典学の再生」研究グループ主催
 2008年春季第2期学術講演会 第1回 公開講座【古典を読む−歴史と文学−】
  2008年6月14日(土) 於金鵄会館

平将門の乱と信濃国 [講演要旨]

早稲田大学文学学術院 准教授 川尻秋生


 天慶二年(九三九)から起こった平将門の乱は、坂東全土を巻き込んだ大規模な反乱として知られている。本講演では、この将門の乱と信濃国の関係についてお話しした。
 信濃国は、乱の直接の舞台ではないが、将門の乱と深く関係していた。
 将門は、天慶二年十一月、常陸国国府を攻撃した。その理由は以下のとおりである。常陸国の富豪であった藤原玄明と常陸介藤原維幾が納税を巡って争い、玄明が将門のもとに助けを求めてきた。そこで、将門は玄明の赦免を求めて、常陸国府に向かった。彼は国府を襲撃するつもりはなく、国司側からの攻撃に対し止むを得ず反撃したのであったが(『将門記』)、理由はどうであれ、国府を焼き討ちしたことは、反乱を意味した。
 以後、将門は、下野国府、上野国府を陥れ、上野国府では配下を坂東諸国司に任命し、新皇(新しい天皇)を自称した。そして、将門は全坂東を手中に収めることになる。
ここで、将門に関する情報伝達を調べてみると、彼が常陸国府を占領した十二月二日(『日本紀略』)以来、将門が殺害された第一報が都にもたらされた二月二十五日まで(『日本紀略』)、直接、坂東から情報は届けられず、信濃国など坂東の隣国から発信されていることに気づく。これは、坂東諸国の国府が機能しなくなっていたため、いったん情報が隣国に伝えられ、そこから飛駅(早馬)がたてられたためと推定される。
 この点は、将門謀反の第一報を聞いた時の政府が、信濃国に対して、軍兵を出して国堺を守ることを命じていること(『本朝世紀』天慶二年十二月十九日条、奈良国立博物館所蔵『浄蔵法師伝』)、そして、将門自体も、下野・上野国司を使者に付けて信濃国に追放し(『『本朝世紀』天慶二年十二月十九日条』『将門記』)、また、朝廷軍が攻め寄せたならば、碓氷坂(上野国と信濃国の境にある峠)・足柄坂(相模国と駿河の国の境にある山)を固めて防御することを明言していること(『将門記』)からも裏付けられる。信濃国は、王権にとっても、また、将門にとっても坂東との境界に位置する、戦略上重要な地域であったのだった。同じ東国といっても、信濃国とそれ以東の坂東とは異質な地域とみなされていたことがわかる。ここに信濃国の特色が見出せる。
 なお、『将門記』には、もう一つ信濃国が現れる。それは、天慶元年二月、平貞盛(将門の従兄弟)を追って東山道を遡り、信濃国分寺付近で貞盛と合戦した記載である(『将門記』)。確証はないが、これにより信濃国分寺は焼失したとも言われ、他田真樹という人物が戦死したとする。この人物は、信濃国に多く見られる他田舎人氏の末裔の可能性もあるし、他田氏を信濃国造に比定する考えもある。信濃国の有力な氏族であった。もし、そうであるならば、貞盛は、信濃国の豪族と深い関係を持っていた可能性もあろう。

〈参考文献〉
   川尻秋生『戦争の日本史四 平将門の乱』(吉川弘文館、二○○七年)