史料研究の世界へ
石上 英一 :僕は奄美諸島史を知りたい
林 譲 :今日は、自分の花押(サイン)を作って帰ろう −モノとしての史料研究の可能性−
横山 伊徳 :モノノミカタが変わるとき

僕は奄美諸島史を知りたい
画像史料解析センター 石上 英一

 奄美諸島は、北から南に、喜界(きかい)島、大島【瀬戸内海峡を挟んで加計呂麻(かけろま)島・与路(よろ)島・請(うけ)島がある】、徳之島(とくのしま)、沖永良部(おきえらぶ)島、与論(よろん)島からなる。奄美諸島は、古代において南島の一部として日本に朝貢し、9世紀頃には日本の政治支配から離脱し、日本と夜光貝などの交易を行い、13世紀頃から再び九州の勢力の南進を受け、また琉球との通交を深め、15世紀中葉前後に北端の喜界島まで琉球国に統治されるようになる。奄美諸島の文化の基層は、琉球統治期の影響で、琉球文化と親近性が高い。『海東諸国紀』の琉球国之図(15世紀中葉の景観)には(パンフレット参照)、奄美諸島の大島・鬼界島・度九島(徳之島)・小崎惠羅武島(沖永良部島)・與論島(与論島)が描かれている。
 1609年(慶長14年)に、島津家が琉球国を制圧した際に同じく制圧され島津家領に編入される。島津家文書に残される慶長16年(1611)9月琉球国中山王尚寧起請文(パンフレット参照)は、捕虜となった尚寧王が、島津家久より琉球国を安堵された際に提出した誓約書である。
 17世紀末以降、薩摩藩によるサトウキビモノカルチャーが喜界島・大島・徳之島などに展開された。幕末に奄美大島に流された薩摩藩士名越左源太の残した『南島雑話』には、島人の琉球と似た髪形や服装、八月十五夜の綱牽の行事、またサトウキビ生産の様子が描かれている(パンフレット参照)。
 奄美諸島は、明治維新後、鹿児島県に編入される。太平洋戦争の敗戦の後、連合軍に占領され、1953年12月に日本に復帰した。2003年12月に復帰50周年の行事が行われた。このように、奄美諸島は、日本列島上の地域的政治社会の中でも、琉球(沖縄)と並んで、複雑な政治過程を経験してきた。
 また、近世における薩摩藩による一種の植民地支配は、他の日本列島の諸地域には見られない、サトウキビモノカルチャー経済を生み出した。薩摩藩も奄美諸島支配なしには、明治維新の中心となることはできなかったのではないか。
 奄美諸島には、史料が少ないといわれる。薩摩藩に取り上げられ焼き棄てられたとも言い伝えられている。焼き棄て論のもとは、島の間切(まぎり。村を統括する組織)の役人たちが、身分の確認や地位の確保のために薩摩藩に提出した文書が、元禄9年(1696)の鹿児島大火の際に焼失したことにある。薩摩藩による系図文書の焼き棄ては、あやまった言い伝えである。
 琉球国統治時代の辞令書(間切役人やのろの任命書や土地給付文書)、近世の間切役人たちやサトウキビ生産についての文書、琉球・朝鮮・日本そしてヨーロッパの奄美諸島に関する史料など、前近代の奄美諸島については、多様な史料が残されている。
 最近は、奄美大島の、日本の古代並行する時期の遺跡から、大量の夜光貝の集積・加工の遺構が発見されている。そういえば、正倉院宝物には、夜光貝の螺殻が1つ残されている。11世紀に創建された宇治の平等院、12世紀の平泉の中尊寺金色堂、13世紀の大和の当麻寺の当麻曼荼羅基壇などの、壮麗な螺鈿装飾には、奄美諸島との交易で入手された夜光貝が使われた可能性がある。
 私の奄美諸島の歴史への興味の始まりは、奄美諸島の学術調査団に参加していた友達の誘いからであった。最初は、「珊瑚礁の海を眺めてみたい」というだけであったが、地域の歴史の深さに気付かされ、自分の狭い研究経験からの思い込みを恥じた。やがて、奄美諸島の歴史は、研究所の仕事、これまでの自分の研究とさまざまな繋がりのあることに気付いた。例えば、正倉院文書の調査に関わって正倉院宝物に螺殻が残されることを知り、平安時代史の編纂と関わって浄土教寺院の螺鈿による荘厳を思い起こした。国宝島津家文書には、名越左源太の『南島雑話』、17世紀中葉の奄美諸島を描く琉球国絵図などがあるではないか。史料編纂事業の創始者の一人、重野安繹も奄美大島に流されていたことがある、等々。
 自分が奄美諸島史研究に参加できることを求めてみたいとの気持ちから、古代史が専門で、中世史や近世史さらに琉球史は全くの門外漢ながら、奄美諸島の編年史料集を編纂してみようと企てている。


今日は、自分の花押(サイン)を作って帰ろう
−モノとしての史料研究の可能性−
特殊史料部門 林 譲
羊頭狗肉
 花押(かおう)については、教科書や日本史用語集に掲載されてはいますが、授業では触れられることの少ない、余りなじみのないものと思います。しかし、スポーツ選手や芸能人のサインは知っているでしょう。花押は、サインそのものではないけれども、日本的なサインともいえるのです。
 今日のこの時間は、自分独自の日本的なサインを作ってみようとするのが主旨ですが、時間的な制約があります。そこで、羊頭狗肉ですが、作成の原理を理解し、そのことが、日本史研究にどのように役立つか、について触れてみたいと考えています。
想像する
 覚えるようなことは何もありません。ただ、自分の場合に引き寄せて想像して下さい。
 皆さんには、苗字があり名前があります。兄弟姉妹がいる方もいるでしょう。ご両親がいて、そのご両親にも、それぞれのご両親がいます。そして、それぞれに同じ苗字、或いは別の苗字があり、必ず名前があります。そのような家系を頭に描いて、とりあえず聞いて頂きたいのです。
花押とは何だろうか
 これは間違いなく自分の意思である、あるいは自分の責任であることを示すために、自分の名前を署名すること、また署名したものを自署(じしょ)といいます。そして、楷書で書いた自署をくずしてデザイン化したものが花押です。似ているものに草名(そうみょう)があります。
『石山寺縁起』の一場面から
 ところで、花押が据えられている文書は、一体どのように執筆されたのでしょうか。この問いに対し、滋賀県石山寺(いしやまでら)の草創と本尊観音菩薩の霊験を描いた『石山寺縁起』巻五の一場面を事例に考えておくことにしましょう。
 この場面で注目したいのは、第一に、中央の男性は、左手に二枚重ねの紙を持ち右手で筆を持って執筆していること、第二に、男性の左側には文字が書かれた紙が置かれている文机(ふづくえ)があり、紙を机の上に置いて執筆した場合もあると想像されること、第三に、手前の男児は大きく両手を広げて文書を持っており、少なくとも二枚以上の紙が接続されていると考えられること、の三点です。
書札様系統の文書
 中央男性と同じ格好をして書けるものは、例えば、くずした文字で書かれた「聖守(しょうしゅ)書状」(東京大学史料編纂所所蔵)のような文書です。これを書札様(しょさつよう)系統の文書といいます。いわば現代の手紙です。多少大振りな文字をくずして書くという大きな特徴のほか、冒頭部分の余白は空けて書き始め、1枚目の終わりと2枚目の書き出しの位置が上下にいささか異なり、紙の継ぎ目には余白があり文字が重なっていない、などの特徴があります。書き順も独特です。
 これらの特徴は、元々貼り継いであったものではなく、二枚の紙を重ねて持ち、一枚目を書き終わったら、二枚重ねのまま紙を翻して、二枚目を書き続ける書き方と関係しています。文字は、一枚目は紙の表(おもて)面、二枚目は紙の裏(うら)面に書かれていることになります。
公式様・下文系統の文書
 一方、男児が手を広げて持っている文書を、公式様(くしきよう)・下文(くだしぶみ)系統の文書といいます。ここでは、貞和四年十二月七日足利直義下知状(あしかがただよしげちじょう、東京大学史料編纂所所蔵)をあげました。現代の卒業証書などを思い浮かべて下さい。
 一行二十字前後の文字が楷書で書かれています。多くの文字を楷書に書く書き方は、恐らくは手に紙を持っていては書くことが出来ない、もしくは難しい書き方であり、紙を机の上に置いて書いたものであろう、と推測されます。紙継ぎ目部分の上には文字が書かれていますから、文字を書く以前に既に紙が継いであったことを示しており、文字は二枚とも紙の表面に書かれることになります。
中世古文書の二大潮流
 公式様・下文系統と書札様系統とは日本の中世における古文書の二大潮流とされ、この絵巻の場面には、その両者が描かれていると考えられます。紙の持ち方、文字の書き方、紙の使用法などの相違がたやすく見て取れ、その他、墨の違いや様式・料紙・筆法・自筆右筆(ゆうひつ)などの相違も想像される貴重な史料です。
花押は国風文化の一つ
 草名や花押の発生時期は、およそ十世紀初頭から中葉の頃とされていますが、十世紀という時期は、漢字をくずしたり一部を省略したりして平仮名・片仮名が成立した時期と近接しています。自らの名前の文字をくずして書く草名・花押の成立については、楷書のような書き方ではなく、紙を手にもって書くという行為、つまりくずして書く書き方と基本的な原理が同じです。また、日本の花押は中国におけるそれとは全く異なっています。
 これらのことはもっと重視されて良いように思われます。つまり、草名や花押の発生・成立は、平仮名・片仮名の発明や三蹟などの和風書道の成立と同様なレベル、すなわち「国風文化」の一種として考えられるように思うのです。
草名と花押の分類基準
 ところで、日本人男性の名前の多くは漢字二文字で構成されていますが、それを上から下に縦書きにくずして書いた場合、通常は二文字が交差して重なることはありません。両文字が重なるということは何らかの意識的な作為の結果である、と思います。そこに、共にくずした署名である花押と草名とを分類する基準があると思います。主にくずした線のみで構成されたものを草名、交差して空間を形作っているものを花押と定義しておきたいのです。
文字をくずして書いた自分の名前を想像してみて下さい。
中国風の花押(禅僧様)とその使い分け
 一体、中国風の花押とはどのようなものでしょうか。それを理解するためには、中国僧や来日した禅僧の花押をみればよいでしょう。ここでは、宋人の鎌倉円覚寺開山無学祖元(むがくそげん、1226〜86)を例示しました。いわゆる禅僧様(ぜんそうよう)と呼ばれる形体であり、直接名前と関係せず、形体的にはローマ字のI・P・Fなどに似ています。
 次に、京都大徳寺開山宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、1282〜1337)の場合は、年代的な変化ではなく、法語(ほうご)・遺偈(ゆいげ)・置文(おきぶみ)など禅僧としての宗教を示す場合にはA型の中国的な花押、書状などの場合はB型の日本的な花押、という使い分けを行っています。
伊勢貞丈の花押五体説
 江戸時代の学者である伊勢貞丈(いせさだたけ、1717〜84)は、花押を類別して、草名体(そうみょうたい)・一字体(いちじたい)・二合体(にごうたい、以上は成形の方法に基づく分類)・別用体(べつようたい、実名に基づかない花押の総称)・明朝体(みんちょうたい、天地二本の線を特徴とする形体に基づく分類)の五体説を提唱し、今日でも引用されることが多いのですが、上に述べた花押の分類基準から判断すると、二文字を交差させた二合体こそが花押の基本と考えるべきであると思っています。
 ちなみに鎌倉幕府を開いた源頼朝の花押は、「頼」の偏「束」と「朝」の旁「月」を左右に合せた二合体の典型です。
真似をする
 このような分類の仕方を気にしないで、作成してみようというのが主旨ですが、しかし、さあ勝手に作って下さい、といわれても難しいものがあります。そこで、ここでは、真似をするために、比較的著名な人物の花押を例示しました。
 平安時代の学者である大江匡房(おおえのまさふさ、1041〜1111)、三蹟(さんせき)の一人藤原行成(ふじわらのゆきなり、972〜1027)、平清盛の父忠盛(1096〜1153)、戦国時代三好三人衆の一人三好政康、徳川家康などです。これらの花押については、草名体・一字体・別用体・明朝体の典型ともされていますが、それを気にすることはありません。
花押は個人を識別できるか
 吉田・葉室(はむろ)・万里小路(までのこうじ)・坊城(ぼうじょう)などの勧修寺(かじゅうじ)流一族は、練達の官僚として重きをなしました。鎌倉時代頃から、一族としても増えてきますし、似た花押も多くなってきます。例えば、吉田為経(よしだためつね、1210〜56)と藤原資頼(ふじわらのすけより、1194〜1255)との花押を見比べますと、名前の文字が違うにもかかわらず、非常に良く似ています。異なる文字でもくずし方・まとめ方によっては、良く似てくることがわかる事例です。
 同時代の二人ですから、当時でも花押だけ見せられたならば、わからなかったのではないでしょうか。このように、花押だけでは個人を識別できない場合もあるとすれば、識別するための「道具」が必要です。
形体から判断する「道具」
 花押は、古文書の本質的構成要素として、真偽判定、発給者特定、年代推定の根拠となります。史料編纂所では、このような花押の持つ重要性から、『花押かがみ』を編纂・刊行しており、また「花押カードデータベース」「花押彙纂(かおういさん)データベース」を構築・公開しています。この三者は相互に補完して有益ですが、残念ながら花押の形体そのものからは検索できません。それを解消しようとしたものが、「花押彙纂データベース」を基にした「花押類似検索システム」です。
花押類似検索システムの紹介
 ここで、「花押類似検索システム」を簡単に紹介しておきましょう。
先ず比較したい花押画像(ビットマップファイル)をPC上に用意します。その上で史料編纂所ホームページ(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)にアクセスし、データベース選択画面から「花押彙纂データベース」、「比較検索」、「参照」を選択し、用意しておいた花押画像を「読み込み」、次いで「比較」ボタンを押して下さい。そうすると、データベースに格納されていた類似の花押が表示されるはずです。
 2006年2月以降の話になりますが、本日、皆さんが作成した花押をビットマップファイルとして、このシステムに投げ込んでみて下さい。類似した花押が出てくるかも知れません。気に入った花押が出てくれば、それを真似して、自分なりに更にデフォルメして作成し、気に入らなければ、また別の形の花押を作成して、投げ込んでみて下さい。
いま考えていること
 花押は年とともに緩やかに変化する場合があります。この花押の経年変化をX・Y・Z軸の三次元座標軸に位置付けること、すなわち、Z軸を時間軸として、年代が明らかな花押をそれぞれZ軸上に位置付けていけば、年代が不明な花押は自ずから明らかになっていくものと考えています。
 もちろん、花押は人間が手で書くものですから、そんなにストレートに明らかになるとはいえないかも知れませんが、それがうまくいけば、次の段階は、文字類似検索へ展開することができるだろうと、いま考えています。

モノノミカタの変わるとき
維新史料部門 横山 伊徳
もっと詳しく知りたいあなたへ
 あなたの学校図書館でも見つかりそうな本を紹介しますので、何かのおりに、ひもといて見てください。私のはなしが、そのときすこしでも役に立てばうれしいです。
高橋由一について
 彼はとても有名な画家ですので、画集はたくさん出版されています。日本の美術全集だったらかならず彼の絵を収めています。
 はなしで取り上げた彼の絵画論については、『日本近代思想大系 美術』(岩波書店)をお勧めします。彼の自伝である「高橋由一履歴」もここに収録されています。新しい絵画=洋画を開拓しようという熱意に満ちた文章に圧倒されます。
オランダ正月について
 オランダ正月についての定本は、森銑三『おらんだ正月』(岩波文庫)です。著者が史料編纂所の職員だった時代に蓄えた博学には脱帽です。
 また、蘭学者の杉田玄白については、いうまでもなく『蘭学事始』(岩波文庫)です。
新元会図の主賓である、ロシアへの漂流民大黒屋光太夫については、井上靖『おろしゃ国酔夢譚』(文春文庫)でよく知られています。その元になった本は桂川甫周『北槎聞略』(岩波文庫)です。
人頭模型(東京大学医学部標本室蔵)について
 おもしろい研究材料だと思うのですが、まだあまり研究が深まっていません。みなさんのうちの誰かが、こうした人体模型についての研究をしてくださることを期待しています。
司馬江漢について
 江漢の「西洋画談」は、『日本思想大系 洋学 上』(岩波書店)に収められています。
 彼も有名な人物ですので、全集も画集も出版されています。伝記も豊富です。その中では、英文学者の中野好夫『司馬江漢考』(新潮社)が、江漢の絵ではなく手紙に注目して江漢という人物を論じていて興味深いです。
森鴎外「芸用解体学」について
 意外にも、西洋でも美術と医学とは深いつながりがあります。ミケランジェロが十年以上も解剖学を勉強したという話は有名です。美術大学では、解剖学の授業が開かれているそうです。当時から医学者としても知られた森鴎外は、東京美術学校(現、東京芸術大学)で、この解剖学の講義を行なっていました。そのときの講義ノートが「芸用解体学」です。美を極めるために、なぜ人体の構造を知らねばならないのか、鴎外先生の薀蓄に興味があれば、ぜひ一読してみてください。(『全集』(岩波書店)に入っています)