史料研究室への招待
稲田 奈津子 :墓からみた古代社会
本郷 恵子 :中世史料の姿をみる―将軍の文書から百姓申状まで―
杉森 玲子 :江戸の町と安政大地震
木村 直樹 :江戸時代の日本と外国の関係―どんな人がきたのだろうか?―

墓からみた古代社会
古代史料部門 稲田奈津子
 史料編纂所では、現存する古代・中世の荘園絵図約300点の調査・研究を継続的におこなっている。1988年からは『日本荘園絵図聚影』全7冊を出版、2006年度からは同書の釈文編を出版する予定であるが、「大和国額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館所蔵)もそうしたなかで調査・研究がおこなわれてきた。
 本図は、現在の奈良県大和郡山市にある額安寺(額田寺)に伝えられた、現存する数少ない奈良時代の荘園絵図である。麻布に描かれた本図は、長い年月のために破損や変色が甚だしく、描かれた図像や文字の判読は困難な状態にあった。そこで本所と国立歴史民俗博物館とが中心となって詳細な研究をすすめ、その成果にもとづき本所技術職員が麻布への復原模写に取り組み、制作当時の迫力を伝える鮮やかな複製を完成させた。
 本図は、額田寺の伽藍や寺領を中心とする景観を描いたものである。当時、この地域は豪族・額田部氏の本拠地であり、額田寺は彼らの氏寺であった。本図には「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものをはじめ多くの墓が描かれているが、それらは現在も現地で確認することができ、5〜7世紀の古墳であることが知られている。本図からは、8世紀当時、額田寺を氏寺として信仰していた額田部氏が、同時に古墳を一族の「先祖」墓として祀っていたことを読み取ることができるのである。飛鳥寺の塔心礎から武具や馬具が出土したことから、初期寺院と後期古墳との密接な関係が指摘されているが、本図からも、古墳から氏寺へという氏族の信仰対象の変化、また一族結集の場の多様性を窺うことができるのである。
 氏族の結集の場としての墳墓は、和気清麻呂の事例からも知ることができる。宇佐八幡宮神託事件で左遷された和気清麻呂は、称徳天皇没後、再び都に呼び戻されて勢力を回復すると、「左遷中に本郷(岡山県)の祖先墓が荒らされた」と天皇に祖先墓の保護援助を求めるのである。ここからは、清麻呂の祖先墓が地元の親族によって維持管理されていたこと、しかしそれは遠く離れた都にいる清麻呂の権力に依存するものであったことなどが読み取れるが、こうして保護を勝ち得た地元の祖先墓に清麻呂が葬られることはなかった。現在、京都の神護寺に清麻呂墓と伝えられるものが残されており、平安京周辺に単独で葬られたと考えられるのである。
 次に出土した古代の墓誌銘に注目すると、7世紀の船王後や小野毛人の墓誌からは、彼らが本拠地の墓地で一族とともに葬られていたことがわかるのに対し、8世紀になると、ひきつづき地元で埋葬される人々がいる一方で、太安万侶のような上級官人は都城の周辺に単独で埋葬されるようになるという傾向を読み取ることができ、和気清麻呂の事例とも対応するのである。こうした変化は、土着の豪族を地元からひき離して京内へ移住させ、律令官僚制のもとに再編成しようとする、律令国家の形成過程の中で理解することができるだろう。本拠地の氏族墓に氏族の長として葬られる時代から、都城周辺に律令官人の一員として葬られる時代へと変化したのである。
 墓は、一見すると考古学分野の素材ではあるが、荘園絵図や出土墓誌を丹念に読み込むことにより、文献史学(日本史)の立場からも多くの知見を得ることができるのである。

中世史料の姿をみる―将軍の文書から百姓申状まで―
古文書・古記録部門 本郷 恵子
 私たちは言葉を用いて考え、相互にコミュニケーションを行う。日々の生活の中での体験は、言語化されることを通じて個々人の内面に蓄積されるとともに、さまざまな方法で外部に発信され、他者と共有されるのである。これらの営為から生み出されるものは、発信の目的や方法に照応したスタイルを持つことになる。史料研究においては、のこされた史料を逆にたどって、それらが作成された背景や、作成者像をあきらかにすることが重要な作業となる。
 本講では以下の性格の異なる4点の史料を提示し、それぞれがどのようにして生み出されたかを考えてみた。時間の制約があるので、文章を読むよりも、視覚的な印象のちがいに注目して、参加者の感想や意見を求めつつ進行した。

@元暦二年(1185)六月十五日 源頼朝下文(島津家文書 歴代亀鑑)(パンフレット参照)
A薩戒記 嘉吉三年(1443)六月巻(東京大学史料編纂所所蔵)
B建治元年(1275)十月二十八日 阿弖川荘百姓等申状 (高野山文書又続宝簡集)
C藤原実重作善日記・摺仏 寛喜二年(1230)(善教寺所蔵阿弥陀如来像胎内納入文書)

 @・Aは古文書・古記録の典型例であり、永続的価値を持つものとして、受取者や子孫によって大事に管理され、伝えられてきた。最も格式の高い武家文書ひとつである@と、室町時代の貴族の日記であるAを比較することにより、限られた紙面の中にメッセージが集約されている文書と、時間の流れを記述する日記との様式の違いを見た。また、さまざまな料紙や文書を貼り継ぐ体裁をとる古記録と、最近流行しているWeb上で公開される日記とが、他者に読まれることを前提とし、多層的構造をとるなどの共通点をもつことを指摘した。
 B・Cは、漢字を自由にあつかう訓練を受けていない者によって、片仮名や平仮名を用いて作成された史料で、とくにBは「ミミヲキリハナヲソキ」という有名なフレーズを含み、教科書にもとりあげられている。Cは現在の四日市市あたりを拠点とした在地有力者が作成して仏像の胎内に納めたもので、仏を宛所とした内発的な信仰表明である。一緒に伝わる摺仏からは、仏を希求する素朴な熱意が感じられる。いずれも一見して、@・Aとは全く異質という印象を受けるし、あまり類例のない希少な史料である。ただし中世社会においては、B・Cの世界に属する人々の方が圧倒的多数だったのであり、彼らの肉声を受け止めることは、歴史学にとって重要な課題のひとつとなっている。
 それぞれの史料の、文字・語法・様式等々のちがいをみることをきっかけとして、“読み、書き、考える”という知的営為が、自分自身の中で、さらに社会の中で、どのような構造を持ち、どのように成長・発展してきたかについて考えていただきたい。過去の史料を研究することが、現代社会に溢れる情報に対して意識的にのぞみ、世界の多様性を理解しようとする姿勢に通じることが伝わればと願う。

江戸の町と安政大地震
近世史料部門 杉森 玲子
○安政大地震とは
 安政2(1855)年10月2日午後10時頃に発生した、江戸川・荒川の河口付近を震源とする直下型地震(M6.9)で、町方では死者4300人・負傷者2700人、倒壊家屋15000軒・倒壊土蔵1400軒におよぶ被害が出た。開国直後で不安定な政治・社会状況のなかで江戸を襲った大地震については、被害に関する諸記録のほか、地震に題材をとった鯰絵などの摺物が大量に流布した。「所蔵史料目録データベース」で検索してみると、本所には「江戸大地震之図」「安政二年十月地震火事雷漫画集」などが所蔵されていることが知られる。
○「江戸大地震之図」について
 縦36.0p、横892.0p、島津家文書のうちに伝来している。作者および作成の経緯は不詳だが、安政大地震前後の江戸市中の様子を描いた絵画史料として有名である。本史料には@地震発生直前の市中の光景、A震災とその後発生した火災による被害の状況、被災者の避難・救援活動、B復興が進められる過程、が写実的に描かれている。このうちBの場面では、瓦礫の片付けや住まいの再建のために立ち働く者、屋台で飲食物を提供する者などの姿が注目される。
○「安政二年十月地震火事雷漫画集」について
 錦絵80枚が貼り交ぜられているが、そのうちの「諸人繁昌故なまづに礼をするの図」では、鳶・左官・材木屋・四文屋・大工・屋根屋などが「地震のおかげでもうかった」と大鯰に礼を述べている様子が描かれている。
○「齋藤月岑日記」について
 江戸の古町名主齋藤月岑(さいとう・げっしん。1804〜78)の記した日記。月岑は江戸やその周辺の名所・祭礼・年中行事などに詳しく、「江戸名所図会」「東都歳事記」「武江年表」などを著した文化人として著名。本所では天保元(1830)年〜明治8(1875)年にわたる36冊37年分(9年分は欠)の日記を所蔵し、『大日本古記録』として刊行中である。毎日の天気、月岑とその家族の行動、名主としての公務など、公私にわたる記事を記した日記は、幕末〜明治初期の江戸・東京の様子を知るうえで貴重である。
 地震後の記事からは、月岑が町奉行所に頻繁に出入りし被害状況の把握や諸書類の提出などにつとめ、知人の安否を確かめ合うとともに、被害をうけた居宅・土蔵の修復のため鳶・左官・大工・屋根屋が出入りし、生活を取り戻していく様子がうかがわれる。
 地震はどのような状況のなかでおき、社会にどのような影響を与えたのか、画像史料と文字史料をつきあわせながら復元する過程の一例を紹介した。

江戸時代の日本と外国の関係−どんな人がきたのだろうか?−
近世史料部門 木村 直樹
1 何が描かれて、どんな人がいるだろうか?
史料編纂所所蔵模写本「華人邸舎図」(波-294、天明2、1782年)および「紅夷人旅館図」(波-295、天明2、1782年)を題材とした。2つの資料は、藤一純なる人物が士分の者の家から借用して写したこと、さらに伝承によれば原図は昔邦君の命により、良工が描いたことを伝えている。同図については『長崎唐館図集成』(40−43頁、大庭脩編、関西大学出版部、2003年)と『出島図』(194−195頁、長崎市出島史跡整備審議会編、長崎市、1987年)を参照されたい。 これらの図の中に描かれている人物は、一見オランダ人と中国人にみえるが、実は、召使などで出島にやってきている現在のインドネシアの人々、あるいは、東南アジアの華僑の人々がおり、高校の教科書などでは記述されていることとは差異が生じている。さらにオランダ東インド会社の社員かオランダ人とは限らず、例えば後に「出島の3博士」とも称されるケンペル(ドイツ)、ツェンペリー(スウェーデン)、シーボルト(ドイツ)らはオランダ出身ではなかった。 このように、出島や唐人屋敷にいた人々については文献からも他の地域からやってきていることがわかる。史料編纂所で開発し公開中の「近世編年データベース」(東京大学史料編纂所ホームページ(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)−データベース検索−近世編年データベース)は、江戸時代、何月何日にどのようなことが起きたか、政治・外交などを中心に調べることができるのだが、「安南」、「暹羅」「柬埔寨」「東京」など東南アジアの当時の地名を調べてみると、日本との関係が江戸時代を通じて存在していたことがわかる。
2 鎖国とは−18世紀の人はどう思っていただろうか?
西川如見「長崎夜話草(1720年)」((岩波文庫版、『町人嚢・百姓嚢・長崎夜話草』)あるいはケンペル『日本誌』所収「鎖国論」(日本語訳の最初は1801年志筑忠雄訳、邦訳刊本、今井正訳『エンゲルベルト・ケンペル 日本誌』下巻、霞ヶ関出版、1973年)をみると、かならずしも当時の日本と他国・他地域との関係を否定的に捉えない人々が国内外にもいたことがわかる。
3 簡単なまとめ
江戸時代の日本をとりまく環境を「鎖国」と言うべきかという問題を考えようとすると、後世に作られ意味が付与された概念「鎖国」と、歴史的事実とは必ずしも等値ではない。それを考えるのが歴史学の一つの目的ではないかと思う。